中国人少女、街頭からハーバード大学へ


彼女が演奏していたWater Tower前。次(↓)の写真はWater Tower前のクローズアップ。

 アメリカの高校や大学で中国語を学ぶ学生が急激に増えています。
2008年に予定されている北京オリンピックのせいもありますが、中国の経済が力を増し、これからアメリカの貿易の格好の相手になってくれると期待しているからです。
アメリカの中でも中国出身の人々が活躍しています。
ヨーヨーマーが世界的に有名なチェロの名手であることは音楽ファンでなくてもだれでも知っています。
ヒューストンのバスケットボールのヤオミン選手は背の高いことでは人後に落ちないプロバスケットボール選手たちの中で、際だってめだっています。
背も横も大きなことで有名なシャキルオニール選手だって彼の横では小さく見えるほどです。シカゴのテレビのアナウンサーのリンダユーも小さいときに共産主義の中国を脱出してアメリカに来たそうです。  さらに最近中国出身の若い有名人が誕生しました。アメリカの6月は卒業のシーズン。
シカゴの私立高校でひとりの中国人女子高校生が卒業式でスピーチをした写真と記事がシカゴトリビューン2006年6月4日Metro版に載りました。
彼女のことが新聞の記事に載ったのはこれが初めてではありません。以前にも載ったことがあります。そのときは、「6歳の中国人少女、おじいさんとストリートでバイオリンを弾く」という内容で二人の写真が載りました。バイオリンの音色からただ者でないことは、すぐにわかるのですが、中国人のおじいさんに何を聞いても答えません。
どうも英語がわからないようです。6歳の少女も黙々とモーツアルトやパッヘルベルを弾き続けるだけです。
彼女の両親はどこにいるのでしょうか。何をしているのでしょうか。
いったい、このふたりの奇妙な組み合わせのストリートミュージシャンはいったい何なんだ、と話題になったのです。
あれから12年、当時6歳だった彼女イーウェイ(Yi Wei) は18歳になり、シカゴのセントイグナチウス高校を首席(Valedictorian)で卒業して、9月からハーバード大学とNew England 音楽大学のふたつの学校の共同プログラムに入学することになったのです。これに入学できると両方の大学から単位をとり、卒業することができます。たった5人しかこのプログラムに入ることが出来ません。これに入学できるということはすごい才能のあることを証明しているのです。 彼女イーさんは中国の中部地方の町のクエヤン(Guiyang)で生まれ、2歳半のときおじいさん、おばあさんといっしょにミシガン州に移民してきたのです。
そこには彼女の両親が待っていました。父親は留学、卒業してオーケストラでバイオリンを弾いていました。
母親もバイオリニストでした。夢をもって外国からアメリカにやってくると楽しいことばかり待っているわけではありません。
若い母親は突然交通事故で死んでしまいました。イーさん が4歳のときでした。移民一家にとって家が傾くような大事件でした。
父親は彼女を手元において育てようとしましたが、仕事を続けるためには彼女の面倒を見ることができません。
そこで6歳のとき、シカゴに引っ越していたおじいさん、おばあさんのところに預けられることになったのです。
おじいさんとおばあさんは中国移民一世で息子、娘をたよりにアメリカに出て来たものの英語が全然分からず貧しい生活をしていました。
そこに幼い孫娘が飛び込んできたのです。
おじいさんは孫娘にバイオリンを教え、自分もバイオリンをかかえ、二人でストリートでバイオリンを弾いて生計を立てることにしました。
趣味ではなくてこれで生計をたてるのですから並大抵のことではありません。
おじいさんと6歳の孫娘は来る日も来る日もシカゴの町中でバイオリンを弾いたのです。
おじいさんは大人のバイオリン、孫娘は子供のバイオリンを弾いたのです。
晴れた日は街頭で、雨の日は地下鉄で、寒い時は飛行場で、バイオリンを弾きました。
6歳の子供が何時間も何時間もバイオリンを弾くのです。30分休むとまた何時間も弾くのです。
なにしろ生活のためですからやめれば稼ぎが減るのです。それはそのまま生活に響くのです。シカゴの冬は半端じゃない。
指がかじかんでも弾きつづけなければなりません。

二人が演奏していた所(Water tower)と
ボーダーズという本屋の前です。
彼女は30分間のお休みこのお店の
二階で本を読むのが唯一の楽しみでした。
学校が終わるとすぐにバイオリン弾きのアルバイトです。学校の放課後の行事はすべてあきらめなければなりません。
友人の誕生日にも行くことが出来ません。祭日も大切なかせぎの日ですから休むわけにはいきません。
11月のアメリカの感謝際の祭日も街頭でバイオリンを弾いたのでした。6歳の子供が一家の為に働きました。
こうして楽しかるべき小学生の日々はすぎていったのです。
脱線しますが実は私はこの二人が演奏しているのを飛行場の通路で見たことがあります。
そのときは練習しているのだと思って通りすぎました。
おじいさんと孫娘の変わった組み合わせだな、という印象を受けただけで、背後の事情も将来有名な音楽家になるような逸材だなどと考えることもしませんでした。
アメリカでは私達が何気なく通りすぎる人々の中にも優れた人物がいくらでも隠れているのかもしれません。人生ってそんなものなのでしょうね。
 我が家の娘もある時ストリートミュージシャンをした事があります。
それは練習の為でした。先輩の音楽家といっしょにシカゴの街頭でフルートを吹いていました。
その前にシカゴ市役所に行って、お金50ドルを払い、許可証をもらい、首からぶら下げ、いざ、街頭へ。
演奏してかごにお金を入れてもらうのですが、車のパーキング代、お昼代を払うと何も残らず、これではアルバイトにもならないと悟り、以後ストリートミュージシャンは廃業。
フルートの練習のためだと言っても、周囲の人々の目には、うちの娘もホームレスにしか見えなかったのではないか、と思います。
生活がかかっていないとストリートミュージシャンは続かないような気がします。
ところで、話はもどりますが、孫娘にバイオリンを教え、自分も街頭で弾くのですから、おじいさんもかなりバイオリンの修行をしていないと出来ないはずです。
どうしてバイオリンが出来たのでしょうか。
おじいさん、ミスター インウェイ(英偉Ying Wei)、は若い時に音楽の才能を認められて中国の有名な音楽大学Hubei Conservatory (湖北音楽大学)で勉強し、卒業し、州の文化センターの音楽主事に任命されました。
前途洋々の青年音楽家でした。ところが当時の権力者毛沢東の批判をしたと受け取られて、いっぺんに音楽家から料理番に左遷されてしまったのです。
中国で自分の音楽家の道が閉ざされてしまったので、夢を託して息子をミシガン州の大学に送りました。
息子は首尾良く卒業し、テネシー州のオーケストラに就職し、中国人の女性と結婚したのです。
中国に帰国しているときに生まれたのが本人イーウェイ(Yi Wei) です。
彼女の両親が先にアメリカに着き、続いて、おじいさん、おばあさん、本人の5人で迫害された中国を後にして、自由の国アメリカで一家は合流しました。
これから夢のアメリカで生きられる、すばらしい毎日がはじまったのです。
しかし、一家の幸せは長く続きませんでした。
アメリカで生活し始めたやさきに、お母さんが仕事の疲れで居眠り運転をしてしまい、厳冬で氷ついた道路から転落して、死亡してしまったのです。
一家は絶望のどん底につきおとされました。
おばあさんは中国ではちゃんとした職業人だったのですが、アメリカに来ると、英語が話せないのでベビーシッターしか仕事がありません。
英語ができないために苦しむのはおばあさんだけでなく、アジアからの一世はみんなこの困難とぶつかります。
おじいさんと彼女は生活のために街頭でひたすらバイオリンを弾き、一日に30ドルから100ドルを家に持ちかえり家計を助け、少しでも空いている時間は学校の勉強をしました。
またバイオリンよりもっと自分にあっている楽器を発見したのです。
それは打楽器でした。
才能に恵まれ、良い指導者に恵まれ、彼女の打楽器の才能は自他ともに認めるような大きな進歩をとげ、音楽の奨学金をもらうまでになったのです。
他方、学校の勉強の方もよくできて高校の科目はほとんどAプラスを取ったのです。
こうなると周囲は、放っておきません。
奨学金を出してくれる団体が現れたり、マリンバでシカゴシンフォニーオーケストラと共演したり、ヨーヨーマーに招かれて、音楽と学校の勉強について講演したり、忙しい毎日を送ることになりました。
そして9月からは夢のハーバード大学と名門音楽大学が彼女を待っています。その後どうなるのでしょうか。
東海岸の名門校に行くことで、シカゴの親代わりのおじいさん、おばあさんは愛する孫娘としばらく別れることになりますが、彼女の才能を伸ばすためには自分達が犠牲になることを恐れません。
祖父祖母は、自分たちは英語を学んでいる時間もお金もなかったので、今でも英語が話せないそうです。自分たちが犠牲になって次の世代を育てたという点では戦前の一世も戦後の一世も同じことをしたような気がします。
次の世代のために犠牲になる、踏み台となる、これが外国で生きるアジア人一世の運命なのかもしれませんね。
イー さん、おじいさんとおばあさんの夢を背負って東海岸へ飛んでください。
私達も同じ気持ちで娘を音楽の勉強のために日本へ送り出しました。