生涯教育こんちには。
私の隣人――高橋敬さん――
   「オリンピックに2度も出場した若者」

はじめに――出会い
あるとき、大学の中で日本からの留学生に会いました。とても親切な人で気になって他の留学生に人にたずねましたら、「あの人はオリンピックの選手です」と言われました。オリンピックの選手がシカゴの町をうろうろしているなんて、あんまりないことなので、さっそくインタービューを申しこみました。
やはり噂にたがわずオリンピックの選手でした。
1998年の長野冬季オリンピックと2002年のアメリカのソルトレークオリンピックに出場したのです。
この青年は高橋敬さんという若者です。「リュージュ」という種目に出場しました。
リュージュと聞いて「あれだな」と思いだせる人はまずいないので、「リュージュ」をインターネットで調べてみました。

I. 「リュージュ」とは?
ボブスレイという言葉は聞いたことがありますか。
4人くらいでボートの形をしたそりに全員が仰向けになって乗って、傾斜のついた氷のトンネルみたいな溝を走り降りるという競技はみたことがある人も多いでしょう。
足の方から滑っていきますが、頭からスライデングのように突っ込んでいく競技もあって、それはスケルトンとよばれています。 調べてみるとリュージュはボブスレイの親戚みたいな「そり競技」で、ひとりかふたりで乗るのです。滑るところはボブスレイとまったく同じ傾斜のついた氷のトンネルです。リュージュはフランス語で「木のそり」という意味だそうです。荷物を運ぶそりが遊びとなり、やがて競技に発展したのです。仰向けに寝て乗って足先から走り降りるのです。
冬季オリンピックで選手がベッドに寝ているような形ですべりおりのをみた事を思い出しましょう。
あれがリュージュ競技なのです。 寝ていて走り降りるなら楽でいいなと思うのですが、スピードがすごく速いのです。
最高時速は120キロから130キロメートルです。
普通の人が自転車に乗って必死でペダルをこいでも時速20キロとか30キロだそうですから、その6,7倍の速さです。時速130キロメートルは秒速に計算すると36メートルですから、100メートルを10秒で走るトラックのランナーよりも3倍も早いことになります。長野オリンピックで日本の清水選手は500メートルを35秒59で走って優勝しましたが、1秒間にすると14メートルぐらいになり、数字だけ問題にするとリュージュの秒速36メートルにははるかに及びません。ですからリュージュのスピードがどんなに速いか想像がつきます。ある日本人記者の表現を借りれば、「氷を切り裂き、風を突き抜ける鋭い音、生でなければわからない迫力」だそうです。ものすごい風の音は想像するだけでもわかります。 リュージュの勝負は1365メートルの滑走路を4回走ってその合計で競います。
合計タイムが100分の1秒の差で勝敗が決まるくらい激しい戦いが繰り広げられます。
ですから1000分の1まで測定できる計測機械を使っています。

II. 日本チャンピオンを目指して
リュージュのスピードがすごいことはわかりましたが、一般の人にとってはあまり聞いたことの無い競技です。
それなのにどうして高橋敬さんはこんな競技と出会い、どこに魅せられて選手になったのでしょうか。
高橋さんは1979年に長野市に生まれました。子供の時から雪と氷には慣れていて、2、3歳でスキーをはじめたほどです。10歳のときにリュージュの練習を始めました。なぜかというと親がリュージュ少年クラブに入るように勧めたからです。 多くの日本人はリュージュという競技を1972年札幌オリンピックのときまで聞いたこともありませんでした。
日本の団体が冬季オリンピック全種目参加をスローガンにしたので、今まで聞きなれないリュージュも参加種目に加えられたのです。
この年にリュージュがはじめて日本人の目にとまったのです。16年後の1998年長野オリンピックでも日本は全種目参加をめざしましたので、リュージュも実施種目に入ったのです。このためにリュージュの選手を育てる強化プログラムが必要となり、将来ある青少年のためのリュージュ選手育成のクラブが生まれました。
その情報をつかんでいた彼の両親は高橋少年にリュージュをすすめたのです。 リュージュが一般に知られないのはこの競技自体が普及に関していくつかのむずかしい特徴をもっているからです。
第1に、1500メートルちかく氷の傾斜を滑走するので長い氷の滑走路が必要になり、どこでもできる競技ではなく、アジアでは札幌と長野にしかないそうです。高橋さんが長野に生まれ、育ったのもリュージュと出会う重要な要因だったのです。ほかの土地で生まれたらリュージュに縁がなかったかもしれません。
長野のリュージュのクラブに入り、長野の滑走路で基本的な訓練を受けました。
第2にもうひとつ厄介なのはこの滑走路は長いので冬の間以外は氷を張ることができず、コンクリートの骨組みだけが残ってしまい、冬以外には練習ができないことです。
それを補うためにローラーブレードのようにそりにローラーをつけたローラーリュージュなるものを作って冬以外にも補足的な練習を続けるのだそうです。
第3に1秒の1000分の1を争うような厳しい競技なので、いろいろな滑走路を経験しないと良い成績が残せないのだそうです。そこで札幌と長野の滑走路だけではだめで海外に出かけて腕(足?)を磨く必要があるのです。
海外にいくわけですからお金と時間の問題がでてきます。
生徒は学校の休みのときに限られてきます。
第4にこのごろは国産品ができるようになったけれども、高橋さんの時代はイタリヤから輸入し、値段も30万円もかかったそうです。
ここでもお金がかかってしまうことになります。

III.ついにオリンピックへ
高橋さんは(自分では言いませんが)素質があったのです。
中学のときから県や国が援助してくれて海外での訓練と試合に出かけることが出来ました。
ドイツ、オーストラリア、ノルウェー、アメリカ,カナダなどまで行かせてもらいました。
高校3年の18才のときに1998年2月の長野オリンピックの日本のリュージュの選手に選ばれました。
オリンピックの選手になるためには、日本国内のいくつかの予選を通過しなければなりません。
ワールドカップとか、世界選手権とかに出場して世界のレベルに匹敵するような記録を出していなければなりません。
高橋さんは厳しい選考を勝ち抜いて日本代表選手に選ばれました。長野オリンピックのときは男子3名、女子3名がリュージュの選手として選ばれました。このオリンピックで高橋ダブルスチームは第14位に入りました。インタネット情報によるとシングルの部では牛島選手が16位でした。
清水選手がスピードスケートで500メートルで金メダルを獲得したことが話題になったオリンピックです。
高校を卒業してアメリカに渡り、2,002年2月のソルトレークオリンピックを目指してリュージュの練習に励みました。
リュージュの滑走路というのは簡単なものではないらしく、アメリカでもニューヨークのレーククラッシットとソルトレークの2箇所しかないのです。ニューヨークの滑走路の近くに滞在して、午前中は学校へ通って勉強し、午後は練習を続けました。2002年のソルトレークオリンピックのときにも日本の代表選手に選ばれました。
このときは残念ながら転倒してしまい、記録を残すことができませんでした。

IV.オリンピック以後
ソルトレークオリンピックの後で、高橋さんはアメリカに留まり、シカゴ市内のデポール大学でコンピューターの勉強をすることになりました。
2004年まではときどき日本国内の競技には出かけていましたが、次の冬季オリンピックは目指さないことにしました。
2回にわたるオリンピック中心のリュージュ競技の選手生活を振り返ってみていくつかの感想をのべてくれました。
第1にリュージュ競技が普及しないのは滑走路をつくるのにお金がかかること、第2に滑走路が少ないのでそこまで行くのに時間とお金がかかること、第3に日本国内だけではだめで海外遠征などしなければならず、これもお金がかかること、第4に日本にはリュージュで何回も金メダルをとるようなずば抜けたヒーローが過去の歴史のなかで生まれていないこと。
ドイツでは3回も金メダルを取った(つまり12年間も世界チャンピオンだった)ヒーローがいたのでリュージュが知られるようになった。第5にアメリカのコーチは個人の才能を伸ばしてくるような指導をするが、日本の場合は「鬼コーチ」的な指導者が多い。ついていけなくなる選手がでてくる。  最後に後輩に言いたいことを伺いましたら、「途中でやめる人がいるけれど、あきらめないでがんばって欲しい」とのことでした。
勉強しているコンピューターグラフィックを用いてリュージュの最適の滑り方を研究してくださることを期待してお別れしました。