生涯教育こんちには。
私の隣人
私は覚えている

 ――馬のにおいの日系人収容所――

 ミスターオザキとお会したのは、2007年の12月に、我家の近くの高校で日系人の人が来て、戦争中のアメリカでの日本人収容所の経験をお話くださるのですが、来ませんかと声をかけられお話を聞いたのがはじめてでした。
とても印象深かったので、いつかまたお話を聞きたい、とお願いして別れました。
そのうちホームページを読まれている方々にもお知らせしたいと思うようになり、先日再度お話を聞きに伺ってきました。

質問Qと答えAの形式にして英語でお話を聞き、それを日本語にして載せました。

Q. ミスターオザキは、今何をされていますか。
A. シカゴで36年間公立学校の教師と校長をして、退職後多くの人達に収容所のお話しをしています。

Q. カリフォルニアで収容所に行く前にどんな事がありましたか。
A. 1941年の12月に日本軍の真珠湾攻撃がありました。
しかし、カリフォルニアの日本人一世の親達は、あまり英語が話せないので良く分からなかったのです。
ところが、その日近所の人が、日本人のことで大変なことが起きていると聞いたがあなたがたは大丈夫かと、聞かれてはじめて重大事件が起きていることを知ったのです。
そのころの日本人は真面目で、学校や近所の人達とも良い関係にあったので、反日感情ということをあまり考えなかったのです。
しかし、一ヶ月後に3人のFBIが来て、家の中を調べたり、色々なことを質問したりしました。そして父親だけをどこかに連れていってしまったのです。
どこに連れていくのか、また何が原因なのか、家族の者は何も聞かされないまま、父親はニューメキシコに移されて一年間留守になってしまったのです。
その時、父親は自分で事業をするかたわら日系人のリーダーをしていたので、何かあったのかなと思ったぐらいだったのです。
他にも連行された人々がいました。
真珠湾攻撃が具体的な反日運動の引き金になったのは事実ですが、その事前から、カリフォルニアでは、移民と呼ばれる人々――中国人、韓国人、フィリピン人、日本人――は自分の土地を買うことが出来ませんでした。
また、外国人を排斥しようとする傾向があったのです。
そんな反移民感情のなかで日本軍による真珠湾攻撃が突如起こったのですから、日本人1世、2世がターゲットとなったのは当然のなりゆきだったのです。

Q. その出来事はミスターオザキが何歳の時ですか。
A. カリフォルニアの高校4年生で19歳の時です。
あとわずかで高校を卒業しようとしているときでした。
FBIの兵隊が突然来て、自分の身のまわりの物だけを持つように言われたのです。
大きな物や家具などは急いで処理しました。その後、身のまわりの物だけを持って、バスでサン競馬場と呼ばれていた所に連れて行かれたのです。
そこは馬のレーストラックで、馬を他の所に移して、急いで小さなバラックを建てて、そこに収容されました。
今まで馬の馬舎として使われていた所だったので、馬の臭いのする狭い小屋で何もないところに家族一家で収容されたのですから非常に驚きました。
馬のにおいのする汚いバラック、決して忘れることはできません。

Q. その時は、どんな気持ちでしたか。
A. 私達は、アメリカ市民だったし、何も政府に対して犯罪を犯していないのに、馬以下の扱いをされた事に大きな驚きと非常な怒りを感じました。
彼等にとって馬は私たちよりも価値があったのです。
私たちは動物以下の価値もなかったのです。非常な屈辱を感じました。
日系人はアメリカの市民であっても、財産を没収されたり、収容所に突然行かされたので家や店をただ同然で売ったり、処分しなければならなかったのです。

Q. そこにはどの位住みましたか。
A. その競馬場は仮の住まいで、6ヶ月住み、アーカンサスに収容所が出来るとそちらの方に移されました。

Q. 新しい収容所の生活はどうでしたか。
A. 収容所に入れられた3分の2は二世の若い人々でした。
高校卒業まじかの人や高校生で来た人々は収容所の中で続けて勉強しました。
しかしいつ出所できるかわからない生活は、若い人にとってとてもつらい生活でした。

Q. 有名な日系人部隊442について話してください。
A. 屈辱に満ちた収容所の中から、アメリカに忠誠心を見せようとするAmerican 442nd Regimental Combat Team という、二世のアメリカ軍志願グループが出来、多くの若い人々がイタリアの戦場に出かけました。
そうする事で日系人のアメリカへの忠誠心を示そうとしたのです。
そのAmerican 442ndは、Go for Broke(倒れるまで戦え)をスローガンとし、とても勇敢だったのです。
今でもアメリカの中で伝えられています。
私は収容所から外に出たかったので、部隊に応募しました。
442の一番の功績は、イタリア作戦で本隊から離れて行方不明になっていた211人のアメリカ兵士を救出したことです。
442部隊の戦死は非常に高い犠牲率で、アメリカ人はびっくりし、日系人のアメリカへの忠誠心をみなおしたのです。

Q. 442の日系人兵士はとても優秀で、IQがどこの部隊よりも高かった、ウエストポイントよりも高かった、と聞いていますが、どうしてArmy 陸軍だけに入隊されたのですか。
A. そのとき、日系人は陸軍にしか入隊させてもらえなかったからです。

Q. 軍隊の後、どうしたのですか。
A. カリフォルニアには帰るなというので、姉を頼ってシカゴに来たのです。
シカゴで人種差別のないルーズベルト大学の教育関係の学部で勉強することが許されました。

Q. 日系人は何年間収容所で生活したのですか。
A. 私のように兵隊に行った者たちは途中で収容所からでましたが、一般の日系人は4年間ぐらい収容所生活をしました。1946年に日系人は危険人物ではないと分かり開放されましたが、収容所生活が長かったので、また同じ事が起きるのではないかと、皆出て行くのに恐怖を抱いていました。反日感情の強いカルフォルニアには帰る事はできませんでしたから、多くの人々は親戚を頼ってシカゴやフィラデルフィアなどに移っていきました。私の家族は、シカゴに親戚が住んでいましたから、そちらの方に引っ越しました。収容所を出るとき、ひとりあたり25ドル支給されました。
Q. シカゴの生活はどうでしたか。
A. 自分はカルフォルニアで生まれ育ったので、最初シカゴの寒さには驚きました。
いつも暖かいカルフォルニアを懐かしく思いました。

Q. 高校卒業証はその後届きましたか。
A. 高校の卒業式にも出席できなかったし、また卒業証書ももらえないまま11年が過ぎました。
その頃にやっと卒業証書が手元に届きました。遅い到着でしたが嬉しかったです。

Q. 校長先生をされたと聞きましたが。
A. 高校4年生のときに収容所に入れられ、軍隊に行き、すでに4年以上経っていました。
シカゴのルーズベルト大学を卒業しましたが、アジア人は学校の先生になる事ができませんでした。
戦後1950年から1960年の間、シカゴ市は教育に力を入れて学校を作りましたが、先生が不足していましたので、日本人も先生になる事ができるようになり、私も教師として採用されました。
その後、公立校の校長になりましたが、アジア人としてははじめてのことだったので注目されました。
2つの小学校とひとつの高校で校長職をしました。

Q. 日本人一世も2世も収容所のことを話したくないような雰囲気がありますがどうしてですか。
A. 多くの犠牲者を出した戦争や収容所生活は、日系人の方々にとってとても恥ずかしい体験だったのです。
監視と高い塀で囲まれた生活はみんな口には出せない、屈辱の生活でした。
一世の親達は、この問題に対して何も話したがらないし、恥ずかしいと思う気持ちを持って収容所生活を送ったと思います。今も語りません。
もう少し詳しくいうと、親たちはアメリカに希望を持って移民して来て、いつの日かには成功して日本に帰国しようと思って一生懸命働きました。
その結果どうだったでしょうか。
誇りに思っていたアメリカの国からセカンドクラスどころか、サードクラスの人間として扱われた事は、大きな衝撃でした。
2世も若い時期の4年間を友人や自分が育ったコミュニティーから離され、隔離された事は一人一人が大きな心理的な痛みをもって生きていくようになったのです。
今でも消えていないと思います。何らかの傷が残ったのです。

Q. どうしてミスターオザキは悲しい体験をどうしてお話されるようになったのですか。
A. 今までうけたつらい体験は、私に限らず、だれも思い出したくないし、だれも言いたくなかったと思います。
アメリカ政府に訴えてもだれも責任をとりませんでした。
1988年に当時の大統領のレーガン大統領が、日系人にした収容所生活は政府のミスだったと認め、収容所に入れられた全員に一人あたり二万ドルを支払う約束をしてくれました。
一世の人達は既に他界している人達もいました。 この問題解決を境に、二世達は、日本人、日系人として誇りを持つようになり、自分達が体験したこと話すようになりました。
ロスやワシントンDCの州の会議に出席して話しはじめたのです。
私もいままで色々な所に行って話しました。
小学生から大学生や大人たちにまで多くの人々に話す時、みんな一生懸命耳を傾けてくれます。これからも話し続けていきます。
私の孫は、彼の母親が日系人ではありませんが、日本語にとても興味を持っており、今、千葉大学に一年間留学をして日本語の勉強をしています。
日本語がとても上達しました。嬉しいことです。4世の孫に自分達の体験した事を話してあげます。

Q. お孫さんが日本語を勉強されるのは嬉しいですか。
A. とてもうれしいです。私達二世は日本語より英語で教育を受ける事に力を入れていましたので、日本語を学ぶ機会がありませんでした。
家内は収容所にいる時、日本語を勉強しましたので日本語を今も話せます。
人種に関係なく結婚できる日系人3世や4世は幸せです。
当時の2世は日本人以外との結婚は法律で認められていませんでした。

Q. 若い日本から来た人々や、戦争を知らない人々に一番伝えたい事は何ですか。
A. 私もいつも若い学生たちに話している事は、911のような事が起きると、アメリカ生まれのアラブ系の同胞たちまで、加害者として扱われるのです。
アメリカは自由の国、法治国です。
感情的にならず、法律を固く守って、日系人の収容所のような問題を2度と起こさないようにしてほしいです。
アメリカ市民であった2世まで、何の理由もないのに収容所にいれたのは、法律違反であることは明らかです。
法治国家として恥です。


次回も新しい出発を始めた人を紹介します。楽しみにしてください。