生涯教育こんちには。 今年の10月からシカゴ市内にあるDePaul 大学で広島長崎原爆展が開かれ、写真や特別公演で原爆の悲惨を知らされ、考えさせられていた。 ちょうどそのころ下のご夫妻を知る機会があった。 ミスターイノウエは1960年に日本からアメリカにわたり、英語を学び、良い仕事につき、家族を育て、二人の子供さんも一人は医者となり、一人は弁護士となり、家庭をもち、公私に活躍しておられる。 イノウエさんご夫妻は、今はリタイヤされて、孫たちの顔を見る日々を送っている。 日本人一世のアメリカンライフとして成功したご夫妻である。 インタービューを申し込んだら快く引き受けてくださった。 会ってみると、アメリカに長くいた人だな、とわかる温厚な紳士で、穏やかに話してくださる。 しかし、その内容は聞いて驚くような話しだった。以下は筆者がまとめた記録である。 あの日、あの時、ミスターイノウエは16歳の少年であった。当時の日本はアメリカ軍と戦争をしていた。 男子学生たちは学徒動員命令で勉強どころではなく、工場に駆り出され、きつい労働に毎日を送っていた。 その日の朝、イノウエ少年は、身体の調子が悪いので、上官から許可をもらって赤十字病院へ行くことにした。 駅に着くと電車が発車しはじめたところだったが、急いだら飛び乗ることができた。これが運命の分かれ道だった。 次の電車に乗ったら、彼の人生は変わっていたに違いない。飛び乗った電車が目的の駅に近づくと、スピードを落とした。 一人の男が駅に入るのを待たずに飛び降りたので、彼も近道をするためにまねをして飛び降りた。これが第2の運命の分かれ道だった。 もし目的の駅まで乗っていたら、彼の人生は変わっていた。 第3の分かれ道は、病院の建物に入り、受付の前に立って財布を取り出したときだった。建物の外にいたら人生は間違いなく変わっていた。 その日、その時、1945年8月6日朝8時15分、彼が受け付けで財布を取り出したとき、ピカと光が走り、ドーンと大きな音がした。 イノウエ少年は爆風で吹き飛ばされて、気を失った。それから8時間ぐらい気絶していた。 病院から1.5キロの爆心地の上方600メートル上空でアメリカ軍の原爆が破裂したのである。 直径60メートルの第2の太陽は摂氏250万度の熱線と放射線を発射し、広島市を一瞬のうちに焦土化したのである。 熱線と放射線は広島をヒロシマと変えた。建物は倒壊し、人々は重傷のやけどをし、死傷者はかぞえきれず、いたるところで火事がおき、きのこ雲は土やほこりを巻き上げて、9000メートルの上空まで達した(私たちが乗るジェット機が飛ぶのは10000メートルぐらい)。 上空で冷やされたきのこ雲は黒い放射能雨となって2時間にわたってヒロシマに降り注ぎ、人々をいっそうの苦しみのなかに突き落とした。 ![]() (イノウエご夫妻と筆者) イノウエ少年は夕方5時ごろ目をさました。 頭が割れるようにいたかったが、生きていた。 電車に飛び乗れたこと、目的の駅の前で飛び降りたこと、病院の建物に入っていたこと、これらが幸いした。そうでなかったら爆心地から1.5キロの距離だったから間違いなく学徒動員の友人たちとおなじ死への運命をたどっていた。 さらに幸運だったのは、気絶していたので動かなかった、いや動けなかったことだ。動いて、歩き回っていたら、その時いたるところで火事になっていたので、その中にまきこまれて、焼け死んでいたかもしれない。 また、黒い雨と恐れられた放射能雨に打たれて、致死量の放射線を浴びていたかもしれない。気絶して動かなかったので火事からも放射能雨からも逃れることができた。 生き延びて目を覚ましたイノウエ少年は、片方の靴がないことに気がついた。外に出ると信じられない光景だった。別の世界に来てしまったのではないか、と思った。爆心地から2.5キロ以内の建物は爆風で倒壊し、平らになっていた。市の端まで見渡せた。10万人の人々が即死した。20万人の人々が火傷をしたり、けがをしたり、苦しみのなかに突き落とされた。あちこちで火事が発生し、生き残った人々は焼けただれて、その中を幽霊のようにさまよっていた。広島市は死人の町、いや、死の町になっていた。 その中をイノウエ少年は5キロの先にある自分の家を目ざしてノロノロと歩き始めた。 ショックのために感情を失い、ただただ我が家をめざして歩いていった。広島市には7つかの川が流れていて、橋がかかっていた。 家に帰るためには3つの橋を渡らなければならなかった。橋の上を多くの人々が力なく歩いていた。川にも多くの人々がいた。水を求めて人々は川に殺到したからだ。 家は燃え尽きていた。幸い母と姉が生きていた。 母は足と腰の骨を折って歩けなかった。祖母はどこをさがしても見つからなかった。 姉と私は母を看護しながら夜を明かした。鏡が無いので、自分の顔を見ることができなかったのが良かった。 実は顔は焼けどのために膨 れ上がり、口を開けることができないので、たきだしのおにぎりも小さくちぎりながら食べたのである。 自分の顔をみたら卒倒したかもしれなかった。 翌朝、軍の医療施設が見てくれるというので、母を連れて行くことにした。 病院はけが人で一杯だった。けが人はそのまま死者となっていった。 ある人は頭がおかしくなって話し続けながら死んでいった。大声で苦しみを訴えていた人が明け方静かになって、もう声を出すことがなかったし怪我ひとつしない人が突然死んでいった。 強い放射線を浴びていたのだった。髪の毛が抜けるのはすぐに訪れる死の予告だった。 どこの医療施設もけが人でいっぱいだったので、母はあちこちたらいまわしされた。 私も頭が痛いので医者にみてもらうと、頭蓋骨にひびが入っているが、ここじゃそんな「軽傷」をみてやる余裕はないと治療を断られた。 父と兄は所用で広島を離れていたのが幸いし被爆しなかった。 父母、兄、姉、私が生き残った。母は足腰が不自由になったが生き延びることが出来た。 私たちは8月の終わりごろ、引っ越して家を借りて住むようになった。そして姉は2年後に死んだ。 学校は始まったが次々と場所が変わった。学校へ行くために汽車に乗らなければならなかったが、毎朝5キロの山道をてくてくと駅まで歩いて行かなければならなかった。 私は生き残ったが、感情を失い、喜びも悲しみも感じなかった。 また引っ越して広島市から離れたところに住むようになりそのころ感情がもどって来はじめた。 祖母の死を思い出して泣いた。着る服も無かったし本も無かった。何もなかった。 私はただ死にたかった。非常な疲れを感じるようになった。空腹になっても、少ししか食べることができずがりがりにやせてしまい、私は何度も自殺を考えた。 イノウエ少年はこの日、この時の出来事を胸深く閉じ込めて生きることになった。 思い出したら生きることができなかった。胸深く封印してもう語らなくなった。 16歳の少年にとってこの日のできごとはあまりにも大きかったし、感じやすい年頃の少年が重荷を負って生きつづけるための本能的な知恵だったのかもしれない。 ノーベル平和賞のエリ・ヴィーゼルは少年時代にアウシュヴィッツへ送られたが生き残った。 しかし彼も収容所の経験を長い年月語らなかった、語れなかった。あまりにもショックが大きかったからである。 あれから62年、ミスターイノウエは、人々にあの日の恐ろしい経験を語り、恐ろしい原爆を使用しないように訴えている。 あの日だけで10万人の死者をだし、20万人のけが人をだしただけではない。 放射能の後遺症のために次々と死んでいった。それは20年も30年たっても続いていった。62年たった今でも続いている。 かろうじて元気を回復したように見える人々でも、あの日以来まったく違った人生を歩むようにされてしまった。 肉体的後遺症だけでなく精神的後遺症も消えることはない。恐ろしいことだ。 ヒロシマの原爆は16キロトン級のものだが、次第に大きく、強くなり今は100倍も威力も増し、アメリカ、ロシアだけでなく多くの国が原爆を持つようになった。 それを飛ばすミサイルの技術も人工衛星の発達で格段と進んだ。45年と違って今ではテロリストという恐ろしい組織があるようになった。 テロリストが携帯できる1キロトンの小型原爆でも死者1万人、負傷者5万人でるという計算も発表されている。 現在の原爆使用の可能性はあの日とは較べものにならない。第2.第3のヒロシマを許してはならない。 ミスターイノウエは、原爆反対を説得力あるものとするためには、まず原爆の恐怖についての科学的なデータを提供できなければならない、またインタナショナルな人材交流を盛んにして、国際間の戦争が起こらないようにしていくことが大切である、と勧めておられる。 このインタービューを通して、原爆のこわさを実感し、自分たちのためにはもちろん、次の世代のためにも、2度と使用してはならないと心に誓った。 (文責 安納恵子) 次回も新しい出発を始めた人を紹介します。楽しみにしてください。 |